水濡れ厳禁!

ひとが生きていくために欠かせないもの、と言えばなんでしょう?水、空気、自然、愛…?いろいろありますが、そのひとつが「塩」。塩は、生きていくために必要なものであると同時に、けがれを浄める力を持つ神聖なものとして、古代より祭祀などにも多く用いられてきました。今では簡単に手に入る塩ですが、昔は決して、いつでもどこでも手に入るものではありませんでした。とくに海から離れた都、京都では、とても貴重なものだったのです。

前回の「おいしい海の幸を送ります」では、弓削島という瀬戸内海の小さな島からの年貢について、お話ししました。「塩の荘園」として知られる弓削島荘(ゆげしまのしょう)は、東寺に多くの塩を年貢として納めており、東寺にとって、とても重要な荘園のひとつでした。塩は、お米と同じように「俵」で数えられ、お米に代わる年貢として納められていたようです。次の文書は、弓削島荘から東寺へ年貢の塩が送られた際、添えられた送り状です。

と函19号-2 伊予国弓削島荘年貢塩送進状
と函19号-2 「伊予国弓削島荘年貢塩送進状」文永11(1274)年7月24日

最後に「文永十一年七月廿四日」の日付が入っていますが、文書の裏には「文永十一 八 廿七 到来御寺納分」と書きそえてあります。下の画像の左端をごらんください。

と函19号‐2 伊予国弓削島荘年貢塩送進状
と函19号‐2 「伊予国弓削島荘年貢塩送進状」文永11(1274)年7月24日

文永11(1274)年7月24日に弓削島を出発、そして8月27日に京都に到着し、無事東寺へ納められたようです。なんと34日もの日数がかかったのですね!船に積まれ、瀬戸内海を通り、淀川をさかのぼって運ばれてきた塩は、淀(現在の京都市伏見区)で陸にあげられます。そこからはまた別の運送業者が引き継ぎ、京都の東寺まで運ばれました。

海路と陸路、両方をつかって1ヶ月あまりの長旅。大変だったことでしょう。その間にも、なにかトラブルが発生しないとは限りません。とくに海路は、嵐や海賊の襲撃…、一難去って、また一難…そんな道中をなんとか乗り越えながら、塩の年貢は東寺まで届けられました。

しかし、悪知恵がはたらく輩もいるものです。海路での事故やトラブルを言い訳に、年貢をきちんと納めなかったり、横領したり…。そんなこともしばしばあったようです。そのため、東寺は各地の荘園に対して、年貢をきちんと納めることを誓わせました。たとえば次の文書は、安芸国(今の広島県)にあった東寺の荘園、新勅旨田(しんちょくしでん)の預所(あずかりどころ・荘園を直接管理する者)が、東寺に宛てて書いたものです。この荘園もやはり、船で瀬戸内海を通り、東寺まで年貢を運んでいました。

ヨ函42号 安芸国新勅旨田預所某請文
ヨ函42号 「安芸国新勅旨田預所某請文」弘安6(1283)年3月日

定められた年貢をきちんと納めることを誓ったうえで、もし勝手をするようなことがあれば、水責め、火責めの刑に処せられてもよい、としています。なんともきびしい誓いですね!そして海路を運んでくる間、もし不慮の事故があった場合は「顕然之証拠」(はっきりした証拠)を申し立てる、とあります。

次の文書をごらんください。実際に弓削島から塩の年貢を運送中の船が嵐にあった際、その「顕然之証拠」を東寺に訴え出た手紙です。

シ函12号 □誉書状
シ函12号 「□誉書状」元亨4(1324)年1月14日

その言い分をみてみましょう。――年貢のお米や塩の俵を積みこんだ、百艘あまりもの船団。京都まで無事届けるべく、瀬戸内海を運行中でした。ところが、航路もちょうど半ばにさしかかったあたり…播磨灘(兵庫県南西部あたりの海域)で嵐に見舞われたのです。ほかの船はみな、積荷を濡らしてだめにしてしまいました。しかし、自分の船1艘だけは、仏のご加護のおかげかたいした被害もなく、みな喜んでいます。ただ…百俵あまりの塩は無事でしたが、12俵ぶんだけは、濡れてだめになってしまいました。みなの目の前で起こったことで、嘘いつわりのない真実です。どうか、その12俵ぶんの塩は免じてもらえないでしょうか…。

塩は、ほかのものとは少しわけが違います。多少濡れても無事着きさえすれば大丈夫、というわけにはいきません。水に溶けて流れてしまったら、作った苦労も運んできた苦労もすべて、まさに水の泡になってしまうのです。はたして彼の訴えは聞き入れてもらえたのでしょうか…?それがわかる文書は残っていませんが、塩ならではの苦労と悲哀、しのばれますね…。

(松田:歴史資料課)