蓋裏銘に同じもの無し

再読!92歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (12),「京都新聞」2016年10月28日付26面記事を転載

東寺百合文書といいますと、まず注目されるのは、松雲公寄進の「百合」の桐箱だと思います。それだけではなく蓋裏銘も重要です。

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消えた一通の文書

再読!92歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (11),「京都新聞」2016年9月24日付22面記事を転載

2万点3万通という膨大な「東寺百合文書」を整理・管理していますと、あまり公にはなりませんが、裏話もあります。百合文書の整理を始めて5、6年たった頃、1通の文書があるべき場所に見当たりませんでした。その箱を点検しましたが見つかりませんでした。

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東寺の禁制

東寺百合文書の「織田信長禁制」” では、永禄11(1568)年9月日の日付をもつ織田信長禁制 (せ函 武家御教書並達 86)を取り上げ、信長の上洛について考えてみました。このほかにも東寺には多くの禁制が伝わっています。 永禄8(1565)年10月11日の日付をもつ一乗院覚慶禁制 (せ函 武家御教書並達 85)は、織田信長禁制の3年前のものです。この年5月19日、13代将軍足利義輝が三好三人衆、松永久秀らにより殺害され、その時に南都興福寺の一乗院門跡にいた弟の覚慶(後の足利義昭)は松永久秀により幽閉されました。覚慶は、7月28日の夜に一色藤長、細川藤孝らの協力により南都から脱出し、近江国甲賀郡和田に逃れました。その後11月21日に野洲郡矢島の少林寺に移ります。禁制はこの間に、飯川信堅、細川藤孝、一色藤長らの名前で出されました。

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慎重論の中での府購入

再読!92歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (10),「京都新聞」2016年8月27日付24面記事を転載

前回は、京都府の東寺百合文書購入当初の全体の「晴れ姿」をご覧いれましたが、今回はそのうちの「ケ函」と「テ函」の2箱を掲載しています。中世そのままの百合文書でいかにも迫力のある写真です。残念ながら、もはや百合文書にはこのような素晴らしい姿は全くみられませんが、百合文書の整理はこのような状態から始まったのです。

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「引付」から見える東寺と中世社会

廿一口方(にじゅういっくかた)・十八口方(じゅうはっくかた)・学衆方(がくしゅかた)・鎮守八幡宮方(ちんじゅはちまんぐうかた)・最勝光院方(さいしょうこういんかた)・宝荘厳院方(ほうしょうごういんかた)・不動堂方(ふどうどうかた)・植松方(うえまつかた)など、東寺には様々な僧侶の組織があります。

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最初の「晴れ姿」

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (9),「京都新聞」2016年7月23日付24面記事を転載

掲載している写真は私にとっては実に迫力のある写真ですが、多くの読者の方には何だかよく分からないのではないでしょうか。どうやら文書が雑然とぎっしり箱に詰まっているようです。

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悲願の16年 後七日御修法(ごしちにちみしほ)

後七日御修法とは毎年正月8日から14日まで宮中の真言院で行われた仏事のことで、玉体安穏や五穀豊穣などを祈りました。現在は東寺の灌頂院で行われています。前にも()取り上げましたが、承和2(835)年に初めて実施されて以来、1,000年の歴史の中で数々のドラマが生まれました。今回のお話では、16年越しに後七日御修法をやり遂げた「文観(弘真とも)」のエピソードをご紹介します。

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東寺百合文書の「織田信長禁制」

戦国時代の東寺百合文書の中でよく知られるものに、永禄11年(1568)9月日の日付けをもつ織田信長禁制があります(せ函武家御教書並達86号)。この文書がよく知られているのは、その形状や内容ではなく、戦国武将として人気のある織田信長が発行したものという理由からです。信長の歩みの中で説明すると、信長が室町幕府第15代将軍になる足利義昭を奉じて入京した時のものとして知られています。東寺に残る信長文書の唯一の正文であること、信長の「天下布武」印のあることなどから、展示会によく出品され、図版が図書類にもよく紹介されます。

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大般若経6合と文書箱94合

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (8),「京都新聞」2016年6月25日付26面記事を転載

東寺百合文書は、1997年6月、国宝に指定されました。東寺宝物館では記念として、その秋に特別展「東寺文書十万通の珠宝―時空を超えて」を開くことになり、準備を始めた頃だったと思います。学芸員(現文化財保護課長)の新見康子氏と宝物館3階の収蔵庫に上がりました。いつも目にしているのですが、ちょうどよい機会で「何か面白いことがあるかもしれない」と、国の重要文化財に指定されている大般若経6合の箱の蓋を開けて底裏を眺めてみました。すると、何と銘があるではないですか。これにはしばし、絶句しました。

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教王護国寺文書に見える御土居(おどい)の資料

天正19(1591)年閏正月から4月ごろにかけて、豊臣秀吉は京都の町を堀と土塁で取り囲む惣構えを築きました。北は鷹峯の南側、東は鴨川の西岸、西は西ノ京の付近、南は九条通までを取り囲む全長約22.5キロメートルの壮大なもので、一般に御土居の名称で呼ばれています。南側については、東寺付近のみ九条通まで張り出し、油小路通以東は京都駅付近を限りとしています。東寺の南側は九条通を残して御土居で囲まれ、九条通を西へ進んだところが鳥羽口(東寺口)として西国街道や鳥羽街道に通じる御土居の出入り口の一つになっていました。

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文書は百箱だったのか

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (7),「京都新聞」2016年5月28日付24面記事を転載

東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)については、加賀百万石の五代目藩主である松雲公前田綱紀(つなのり)が、1685(貞享2)年に百の桐箱を東寺に寄進して、早くから伝わった文書を納めさせたので百合文書と呼ばれるようになったといわれています。そして私もこの連載の第一回以降、おおよそこのような常識的な理解に基づいてお話をしてきました。

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新見荘を歩く その3―祐清ゆかりの地―

室町時代になると、東寺による備中国新見荘(現・岡山県新見市)の支配は行き詰まりを見せます。そこで東寺は、現地の武士や守護の家臣を代官に据えることで対処しようとしました。ところが以前にご紹介したように、その代官が横暴を繰り返したため、耐えかねた百姓は一致団結し、寛正2(1461)年に代官を新見荘から追い出してしまいました。

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新見荘を歩く その2―三日市庭と二日市庭―

平安時代末期以降、各地で定期市が開かれるようになります。月に3回開かれる定期市を「三斎市(さんさいいち)」、月に6回開かれる定期市を「六斎市」といいます。平安時代末期~鎌倉時代にかけては三斎市が一般的でしたが、南北朝時代になると六斎市を開く地域が出てきました。

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新見荘を歩く その1―支配の拠点はどこ?―

先に東寺領の備中国新見荘で起こった武家代官の追放祐清殺害事件の一部始終を紹介していました。横暴を働く代官に憤りを覚えたり、たまかきの悲恋に心を打たれたりした方もいらっしゃるのではないでしょうか。備中国新見荘は現在の岡山県新見市にあった荘園で、今でもその名残をとどめています。今回から3話連続で新見荘の史跡をご紹介します。

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「ゑ函」の蓋と桐箱

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (6),「京都新聞」2016年4月23日付22面記事を転載

写真をご覧ください。これは東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)の「ゑ函」の蓋です。百合文書の箱とその蓋については、全て京都府立総合資料館(京都市左京区、現・京都府立京都学歴彩館)に移管されたはずです。しかし、この蓋だけが東寺宝物館(南区)の所蔵として現在、同宝物館の春季特別公開(注・平成28年5月25日終了)で展示されています。どうもおかしいと思う方が多いと考え、この点について述べてみます。

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古文書の書風・書体と執筆姿勢

中世の古文書の多くはくずし字で書かれていますが、注意深く見ると、比較的きちんと書かれているものやひどくくずされたものなど、ひとくちに「くずし字」といっても様々な書風・書体が見受けられます。また、同一人物であっても、時と場合によって全く異なる書風・書体の筆跡を残している場合があります。今回は、そうした書風・書体の問題について考えてみましょう。

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新見荘直務代官 祐清の悲劇と「たまかき書状」

備中国新見荘から届いた百姓たちのメッセージ~百姓を苦しめる代官を追放する~」では、約40年間にわたって圧政を敷いた代官を追放し、領主である東寺の直接支配を実現させた新見荘の百姓たちのお話をご紹介しました。今回は、新見荘を直接支配するために東寺から派遣された代官の祐清(ゆうせい)についてお話します。

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宝蔵と御影堂経蔵

再読!91歳上島有(うえじまたもつ)さんの東寺百合秘話 (5),「京都新聞」2016年3月26日付28面記事を転載

東寺の二つの顔は、「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」と「弘法さん」という二つの信仰形態、そして伽藍(がらん)と御影堂(みえどう)という堂舎のあり方の違いにとどまりません。寺宝の収蔵状況にもみられます。 

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