描かれたものは・・・? その2

東寺百合文書に残る差図(さしず)。そのなかに、「摂津国垂水荘差図(せっつのくにたるみのしょうさしず)」という荘園の絵図があります。今の大阪府吹田市あたりにあった荘園、垂水荘一帯の川や田畑の様子を描いたものなのですが、よーく見ると、図の上部、東西に流れる三国川(今の神崎川)に浮かぶ二つの島の間に、なにか描かれています。

ウ函101号 摂津国垂水荘差図
ウ函101号 「摂津国垂水荘差図」寛正4(1463)年10月

図の上が南、下が北になっていますので、注意してごらんください。草のような木のような…これはいったいなんなのでしょうか?その答えは… 実は他の文書のなかにあるのです。

東寺の僧侶たちによる会議の議事録「廿一口方評定引付」、その寛正4(1461)年9月2日条に、この三国川と二つの島(中洲)についての記事があります。

天地之部36号「廿一口方評定引付」寛正4(1463)年9月2日条

これによると、もともと二つの島のうち、大きな本島は東寺領垂水荘のもの、右の新島(ここでは向島と呼ばれています)は別の領主の領地でした。ところが、垂水荘の先代代官である榎木入道が、柴の杭に柳の枝を挿し立て、それを二つの島の間にすきまなく敷きつめてしまいました。川の埋め立て工事です。そこで、昔は舟が通っていた二つの島の間がなくなってしまい、今はすべてひとつながりの島になってしまった、というのです。

いったいなぜ、そんなことをしたのでしょうか?それは、島の間を舟が通れないようにすることで、舟が島の南側だけを通るようにしたのです。

下の榎木慶徳の書状案には、川に中洲(島)があるとき、その中洲は誰のものになるのか、「淀川のならい(慣習)」について書かれた箇所があります。

な函262号「(榎木慶徳書状案)」

中洲の南に舟の通る航路があれば、その中洲は川の北側の領地に属し、中洲の北に航路があるなら、その中洲は川の南側の領地に属す、というものです。つまり、舟の通り道が、そのまま領地の境界線になる、というわけです。

榎木入道は、この「向島(新島)」を川の北側にある垂水荘のものにするために、二つの島の間を柳と柴で埋め立て、舟の航路を島の南側に変えようとしたのです。島の北側には、垂水荘を南北に流れる河川(現・高川)がちょうど流れ込んできます。そこには砂州ができやすくなってしまうため、舟は島の南側を通らざるをえなくなったのでした。力わざですね!

そう、もうおわかりのとおり、「摂津国垂水荘差図」(ウ函101号)の二つの島の間に描かれたものは、人工的に埋められたたくさんの柴と、それに挿し立てられた柳の枝だったのです。

★図にしてみると・・・(こちらも上が南、下が北になっています)

東寺百合文書とおなじく東寺(教王護国寺)に伝来した、「教王護国寺文書」(京都大学総合博物館蔵)のなかにも、「摂津国垂水荘図」という荘園絵図が残っています。この絵図は、最初にあげた「摂津国垂水荘差図」(ウ函101号)と同じ時期の三国川の様子を描いたものです。この図も上が南、下が北になっているので、ご注意ください。

「摂津国垂水荘図」(京都大学総合博物館所蔵「教王護国寺文書」)
※この画像はCC BYでの提供ではありません

川の中には、やはり二つの島が浮かんでいます。この図では、「本島」は「とうししま(東寺島)」、「新島」は「向島」となっています。そしてたくさんの舟。当時、三国川は、淀川とともに、大阪湾から京都盆地へ続く重要な水路で、多くの舟が行き来していました。あちこちの荘園からの年貢も、ここを通って東寺へと運ばれてきたのです。

もともと、これらの舟は、向島の北から二つの島の間を通りぬけ、東寺島の南を運行していました。島の間に舟が描かれていますが、その下には、「榎木和泉入道せつせつにやなきをしはにさしたてうめ候」と書かれています。また図の右上、島の南側には、「いまはふね此河をとをり候」と記されています。島の間が埋め立てられてしまったため、舟はずっと二つの島の南側だけを通るようになったのです。

「廿一口方評定引付」寛正4年9月2日条の記事と、ぴったり一致していますね!

(松田:歴史資料課)